辻仁成
P.15
あなたはこう言いましたね。死に憧れるのは、愛を信じているのと同じだ、と。
P.169
苦しみが現実にはこの世に存在しないものだと想像してみてごらん。そうすればいつしかあなたの中から苦しみは消え去って、全てが喜びに変るはずだから。
P.203
考えるに、信仰心のある人もない人にも、きっと生き物全てに神や仏やそれ以上の存在から、同等に差し伸べられえている手があるように思う。それに気がついて、それをつかむかどうかはそれぞれの自由ということになるんだけれど、本当のところで人間には不平等はないように思うよ。
平均寿命が二十五歳の人たちの世界でも僕は幸福というものが確かにあると信じたい。平均寿命が八十歳の世界にも不幸がちゃんと存在するように。
P.204
僕はね、あらゆることに卑屈にだけはならない、と決めてるんだ。そういう時に、尊い存在を感じることができる。それが僕にとっての祈りだと思う。いつも何に向かって祈っているのかわからないけれど、祈りとは拝むことではないように思うな。祈りとは、あるがままを受け入れ、それを呼吸のように吐き出すこと。世界にひたって、この人生に感謝することだと思う。苦しいことも嬉しいこともどちらも人生にとっては大事なことだと、最近気がついた。

P.46 女のこについての23行
本当に好きな女の人とだけキスをしたい
これは大人になると
随分むずかしくなるんだ
当たり前のことのようだけど
少し違うらしい
女のこはハーモニカが好きなんだよ
プレゼントするとすぐに吹きたがるだろ
あれは音をだしてみたいんだな
自分が吹いてどんな音がでるか試したいのさ
男のこはちょっと違う
もしもそのこがハーモニカが好きなら
まず眺めてみる
あまり興味がなければ
きっと吹いたりはしないさ
でも女のこって奴はまず吹くんだ
ところかまわず恥じらいもせずにね
そのくせ
自分のだした音がおかしいもんだから
まるで人ごとのように
やだわ、なんて言っちゃう
僕は
ハーモニカを吹きつづけた女のこをまだ知らない
P.76 会ってみたら普通の人だったりする
おかしなもので、会ってみたら普通の人だったりする
なあんだ、ただの人じゃないかと思ってしまう
あんなに待ちわびたのが嘘のように
自分の中でさめていくのがわかる
おかしなもので、別れてみたら普通の人だったりする
あんなに苦しかったのが嘘のように
急速に気持ちが遠のいていくのがわかる
おかしなもので、頼ってみたら普通の人だったりする
あんなに尊敬してたのが嘘のように
突然幼稚にかんじられるのがわかる
おかしなもので、競ってみたら普通の人だったりする
あんなに恐れていたのが嘘のように
問題にもならないことがわかる
おかしなもので、意外と僕は凄かったりする
あんなに自信がなかったのが嘘のように
ある時僕は見ず知らずのひと達に恐れられたりする
昔僕のペンフレンドはとても会いたがらない人で
会おうと思えば会える距離に住んでいたのに
何度も約束をすっぽかされた
次の手紙で謝ってはきたが
いま思えば最初から会う気はなかったのだろう
会えなかったから
会わなかったから
彼女はまだ僕のなかで生きている

P.136
世界は所詮この地球の中のことだと悟った時、宇宙の果ても、存在の果ても、次元の果ても、時間の果てまでも、自分の手中にあるのを知った。出掛けた花井も、死んだ父も、みんな自分の手中にある。地球儀を回し、それを強引に押さえては止めては、そこに丸い星の輪郭が浮かんで、これが全てだと理解した。つまり宇宙とはこの砂州の中の出来事と全く相似なのだった。
P.139
何かを語れば、それが彼女の未来を決定してしまう引き金になるような気がして怖かった。希望も絶望も全て海峡の光の中にあると思った。
P.44
人間は全てを記憶しておくことはできないが、肝心なことは絶対に忘れない、とぼくは信じている。あおいがあの夜のことをすっかり忘れてしまったとは思いたくない。もう二度と彼女とは会うことはない、としてもだ。
P.51
「未来はいつだって先が見えないからいらいらするもの。でも焦ってはだめ、未来は見えないけれど過去とは違って必ずやって来るものだから」